教育に成功はない

育児

教育に携わっている人間として、いつも思っていることは、教育には成功はないということだ。当然、これは子育てについても言える。

もちろん、部分的に言えば、教育にも成功はある。例えば、テストで合格させるとか、足し算ができるようにするとか、そういった個々の目標について言えば、教育は成功もあるし、失敗もある。この場合、期限さえ定めなければ、なかなか目標が達成できなかったとしても、最終的に(いつかは)目標を達成すれば良いと考えるならば、失敗はないといってもいいかもしれない。もちろん、目標を達成すること(させること)を諦めたならば、そのときは失敗といっていいかもしれないけれども。

育児の中の教育的な側面を考えて、例えば、立派な人間に育てるとか、子供を幸せにするということをその目標だと考えるならば、僕の考えでは教育に成功はない。というのも、「幸せ」とか「立派」ということが、必ずしも明確なものではないからだ。それと、僕らは子供たちにとても大きな可能性があると思っている。例えば、高学歴で高収入、さらには周りの人から褒められるような人格を持った大人に子供がなったとしよう。そうすれば、その教育は、普通は成功したと言われると思う。「ほんとうにうまく育てられて」という周りの声が聞こえてきそうだ。でも本当にその言葉に納得していいだろうか。例え一般的に、そういった教育の成功例と言えるような大人に子供が育ったとしても、もしかしたらもっとその子供可能性を伸ばせたかもしれない(能力や人格にかかわらず)、という可能性を考えなくてもいいだろうか。たとえば、もっと優れた人がこの子を教育したら、もっと優れた人物になったかもしれない。そういう可能性を考えなくてもいいのだろうか。僕は、教育するものは、教師であれ親であれ、そういった可能性を常に考えて教育するべきだと思っている。だから、周りの人がうまく教育したとか、自分でうまく育てたとか思うときがあったとしても、もう一度その可能性を意識する必要があると思っている。それが子供には大きな可能性があるということと結びつくのだ。

こんなふうにかくと、なんて悲観的なとか、後ろ向きすぎると思われるかもしれない。でも僕自身はそんなつもりはまったくない。むしろ自分がうまく育てたと思うことの方が怖いと思っているのだ。自分がうまく育てたという考えを抱くと、それは容易に「育ててやった」という考えに変わりうる。そうすると、相手に「うまく育ててあげたのだから感謝してほしい」と要求したいという気持ちまで生み出すかもしれない。そこには「正しさ」を自分は手にしているという思い込みを持っている人と同じ怖さがある。

ベストを尽くすということは大事なことだ。だから教育において大切なことは、あなたを育てるためにベストは尽くしたけれども、うまくいったかどうかはわからない、という気持ちなのではないかと思う。

こういった態度は、哲学でいうところの可謬主義という立場と関係している。可謬主義の「可謬」とは、「間違いうる」ということだ。僕らは知識を持っていると思っているとしても、その知識が絶対確実なものかどうかはわからないし、もしかしたら正しいと思っていても間違っているかもしれないということを受け入れる考えだ。この立場をとる人は、相手に対しても、自分に対しても批判することを怠らない。常に間違っているかもしれないという考えを謙虚に受け止めることで、それを常にテストにさらすということだ。

教育も——そして育児も——一種の実験だ。だから色々と試行錯誤しなければならない。うまくいったと思うことがあっても、もっといい方法があったかもしれないし、もっといい成果が出せたかもしれない。ただベストだと思う仕方を模索し、実行するだけだ。

まとめすぎかもしれないが、「親に感謝しなさい」という親にはなりたくないということだ。


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