文科省が5歳児に「教育プログラム」について

興味深いニュースが目に入った。小学校一年生において学力にばらつきがあり、そのために一年生のときから小学校に馴染めない子がいるために、文科省が幼稚園、保育園、認定こども園なんかにこういうことをさせなさいよ、という教育プログラムを作るらしい。

ニュースはこちら

そういうことがあるのはもちろん容易に理解できる。例えば我が家のように二歳の頃から公文とかに行かせている家もあれば、そういうことをまったくしない家もある。それはそれぞれの家庭事情や教育方針が違うのだから仕方がない。

だからといってじゃあ五歳から教育しようというのはちょっと安直ではないか。いくつか理由を書きたい。

(1)まず幼稚園や保育園や認定こども園は義務教育ではない。それにもかかわらず、このようなプログラムを作ると、行かせなければならないというプレッシャーは大きくなる。

(2)小学一年生での学力格差を無くすために五歳から教育したとしても、今度は5歳児格差ができるだけではないか。そうするとますます5歳児になったときに遅れを取らないように四歳から教育をしないとというぐあいに一年全体的な教育が早くなるだけではないのか。

(3)(2)のように全体的に教育が早期化するというのは、実はそれなりに大変なことだ。もともと我が家のように、早い時期から教育するつもりのような家はいいが、特にノウハウもなく、夫婦で協力する体制が取りにくい家庭においては、養育だけでも大変なのに教育までしなければならないとなると、家庭の精神的負担はますます大きくなる。

教育はいつも大変なのだけれども、小さい子供の教育もそれなりに大変なので、初めからそのつもりがあったり余裕の家庭がそれぞれやればいいのであって、しなければならない圧を全体的に高めることには反対だ。

(4)幼稚園、保育園などの教員、保育士の教育はどうなるのか。ただでさせあまり労働条件がよくないのに、ますます大きな負担を強いることにはならないか。することのハードルが上がる以上、それに見合う報酬をきっちりとだすつもりがあるのか。

小学一年生の格差を少なくするには、前倒しをするのではなく、小学一年生の間に学校の中で解消するようにするべきだ。そのためには、小学校教員の技能および報酬などをもっと高める方がよい。技能だけ高めようとするのはやめていただきたい。もっともっと報酬を高めて、優秀な人材を集めるべきだ。あとさらにクラスの人数を減らす。こちらの方がより効果が見込めるのではないだろうか。


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算数の指導に定規は使わない方がいい

筆算の線、手書きなぜダメ? 小5が160問「書き直し」命じられる 指導の背景は

なんか元は2019年の記事のようですが、今日、また更新されてニュースサイトに掲載されていたのでみてみました。

小学生に筆算を教えるときに、定規で線を引くようにという指導らしく、手書きで書いていた子にやり直しをさせるというものでした。

まあ基本的に教育現場にはある程度の裁量があってしかるべきで、まわりからいろいろと言うのはよくないとおもうのですが(僕も教育現場にいる人間ですし)、ちょっとまさしく「杓子定規」的かなと思いました。

基本的に、将来の入試なんかでは、定規系のものは一切使えないので、必ず道具を使って作業するようにという指導はどうかと思います。むしろ、手書きで丁寧に書くように指導するべきではないでしょうか。

もっと大きくなって、コンパス何かを使って作図するようになるとしても、それは綺麗に描けることを目的としているわけではありません。図形の原理を教えているだけです。将来のことを考えても、正確ではない図形を使って正確な値を演繹するできる能力を身に付けさせるべきです。

まああとは多少の計算ミスなんてのも、そんなに気にする必要はないと思いますし、定規を使いたい子は使ったらいいと思いますが、むしろ手書きを奨励するべきでしょうね。一度書いたものを、たんに手書きだからと言う理由で書き直させるのは、教師も思考停止になっているのかもしれませんね。


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もちろん子供は親を選べない

ネットで育児関係のものをちょっと調べていると、子供が親を選ぶ、選ばないの話があるようで、奇妙に思いました。子供が親を選んで生まれてくる、という発想が、ある効果をもつのは理解できますが、明らかにもっともらしくないし、好ましいとも思えないからです。

「子供はあなたを選んでくれたんだから頑張りなさい」とか、「自分を選んでくれたんだからがんばろう」とか、まあそういう効果はあるかもしれませんが、それにしてもこの考えはどうかと思うのです。

もちろん科学主義者ではなくても普通に考えれば、生まれる前に選択する意思なんてのはありえないのですが、この手の考え方をする人には、そういう科学的な思考に訴えてもあまり意味はないでしょう。

僕が一番この考えが好ましくないと思うのは、極めて危険だからです。というのも、この考えは、子供に対するひどい仕打ちを正当化しかねないのです。例えば、子供に対して何をしても、「こんな私(親)を選んだのはお前じゃないか、自業自得だ」と。

しかも自分を選んでくれたから頑張るって、道徳的にどうなんやって思うんです。例えばもう少し大きくなった子供に、「君を選んでくれた人にだけ良いことをしてあげなさい」って教えますか?

さらに子供に「君がパパ(ママ)を選んだんだよ」なんて言えますか?厚かましいっていうか、向こうからしたらそれこそ「はあ?」って感じでしょ。

子供が自分を選んだから頑張るじゃなくて、選べなかったからこそせめてできるだけのことはしようってなるんなるんじゃないでしょうか。選べたらもっといいとこをえらべたのに、僕のとこに生まれてきちゃって。せめてできるだけのことはするわなって。

先ほど書きましたように、もちろん子供が選んでくれたからがんばろうってなるって理屈もわかるんですが、選ばれなかったとしてもいいじゃないですか。出会えたんだから。

(もちろん子供と一緒にいると、いつもこんな綺麗ごとですむことはないですけどね。腹立つこともいっぱいですし。)


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子供の将来の職業

小さい頃から子供に教育を受けさせていると、将来何にするつもりなのか、ということを聞かれることがあります。芸術などの特殊な職業タイプは別として、こういう質問者がイメージする一つの職業は医者であることがしばしばあります。

僕が大学に就職する前から、医学部というのは親が子供に行かせたい学部の最大候補で、医学部進学を念頭に置いたコース作りなどを、多くの予備校なども宣伝材料として使ってきました。たしかに、社会的ステータスも高く、仕事にも経済的にも困ることの少ない職業だと思います。

逆に、同じ世代の子供のお母さんが、「うちの子は、電車が好きだから、しょうらい電車の運転手になったらいいと思う」といって、特に無理に勉強させるつもりはないことを仄かしているのを聞いたこともあります。(電車の運転手になるにしても、勉強をしておいた方がいいとは思うのですが)

僕自身としては、A(息子です)が、職業として何を選ぶのかということについては、特に具体的なイメージはまったくもっていません。大学の研究者は、自分がそうなので勧めないというのはありますが。ですが、息子の職業についてまったく考えないわけではありません。

僕が考えているのは、何になってほしいかではなく、どういう職業を選べるかということです。

どう違うのかと思われるかもしれませんが、この二つは大きな違いがあります。例えば、先程の「電車の運転手」という職業を考えてみましょう。僕が懸念するのは、電車の運転手という職業が、どういう収入で、どういう労働内容でとかではまったくないのです。それはどうでもよくて、むしろ、20年後、30年後に、電車の運転手という職業がどれくらいあるのかということなのです。

今のように、AIの技術、ITの技術などがどんどんと進んでいく中で、必要とされる人が非常に少なくなる業種は出てくると思います。

ニュースなどで、自動車や電車の自動運転に関する技術テストの話などを見ると、もしかしたら運転に関わる人の数は大きく減っていく可能性は高いと思います。(ここ数年という話ではないです。あくまでもAが仕事を選ぶとき、あるいは転職などを考えるとき、ですから、20年から40年くらい先の話ですが。)

僕のような大学教員だって例外ではありません。今のようなコロナ禍を経験して思ったのですが、少子化だけではなく、リモートで授業ができる可能性がぐっと広がったということは、教師としての大学教員も今よりもグッと少なくなる可能性があります。教師としてのというのは、例えば日本の多くの大学を支えている非常勤講師などです。非常勤講師の存在は今は、大学にとって必要不可欠です。また専任教員を目指す若い研究者にとってもなくてはならない職業です。でも、今後リモートでの技術・ノウハウが蓄積されていくと、そういう職も削減対象になってもおかしくありません。

職業がたんじゅんになくなる、とは言いませんが、少なくとも今の職業の分布とは変化していくでしょう。

そういう中で、どういう仕事が生き残り、Aの選択肢になりうるか、ということはやはり考えてしまうということです。

いずれにせよ、どういう職業につくのか(あるいはつかないのか)ということよりも、どういう状況になってもそこでやっていくことができる思考力をつけさせたいと思っています。


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いい子に育てない

以前の記事で、勉強をしないときに子供を叱ると書きましたが、それ以外はわりと好きにさせています。パパが怒ると怖いというイメージを持っておいてもらうのはいいのですが、一方で、これから大きくなっていくときに、僕の顔色を窺う子供にはなってほしくないと思っているからです。

親が白と言ったら黒でも白とか、親以外の人でも自分の思っていることをちゃんと言えない人間にはなってほしくないと思っています。

そのためと言えるのかどうかわかりませんが(というのも、方法が適切かどうかよくわからないので)、なるべくやんちゃさ、「言うことの聞かなさ」を大事にしたいと思っています。

自分より目上の人の顔色を窺う性格というのは、僕としては非常に好ましくない性格です。もちろん、空気を読める、相手の表情に敏感であるということ自体は、必要な能力です。でもそういったものを読んだ上で、あるいは相手の感情を読み取った上で、それでもあえて思い切って自分の考えを言える、そういう人間であってほしいのです。子供のときのやんちゃさがそういう性格に結びつくのかはよくわかりませんが、まあ多少反抗的なところがあるというのはやはり重要なことだと思っています。ですから、いうことを聞かなくて道端で駄々をこねる息子を見ると、腹が立つというよりも、ちょっと笑ってしまいます。

大学で教員をやっていると、僕が例えば飲み会とか、一緒に食事をしているときに、「これは・・・だ」といったときに、「そうですね、そうですね」という学生よりも、きちんと「いや、僕はこう思いますけど」という学生の方が頼もしく思います。もちろん、反論されて手放しで嬉しいわけではありません。「何を!」と多少はむっとしたりします。ですが、そういうむっとさせる学生は、有能だと思うのです。碌でもない反論はそもそもむっともしないし、すぐに反駁できてしまいますから。

だいたい「いい子」というのは、素直でよく親の言うことを聞く子に使われたりもします。ですが、僕らが「良い」「いい」と判断できるということは、その子供も僕ら、評価する人の価値観の中に収まってしまっているということだとも捉えることができます。やはり、できたらそういう価値観からはみ出してしまうほど力を持った子になってほしいと思いますし、また自分の子供だけでなく、若い人たちが(もちろん、うちのAのような幼児はまだまだそういうレベルではありませんが)、なんでも思ったことが言える社会にしていく必要があると思っています。

もちろん、「なんでも」と書いたのですが、明らかに暴論であるとか、健全的ではない意見もありますし、そういったことを言うことを奨励しているわけではありません。発言する方も、自分の意見がどういう意見なのか、相対化できる能力を養わなければなりません。勉強については叱ってでもさせているのも、そういう力を身につけてほしいからです。

こちらも疲弊しますが、なるべくいい子ではない子に育てていくつもりです。


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「飽きる」ことは重要?

今日は、おもちゃについてちょっと書いてみたいと思います。子供にどんなおもちゃを与えようか、あるいはどういう仕方でおもちゃを与えるのかということは、親にとって一つの悩みだと思います。

そしてこれについても勉強などと同じように、一つの答えなんてないと思います。おそらく子供の性格や個性によってかなり違いがあるはずだからです。またおもちゃにかけることができる経済状況も家庭によってかなり異なると思います。

僕は、最初、厳選して面白そうなおもちゃ、あるいは知育になりそうなおもちゃを与えて、それをいつまでもAが遊んでいるということをイメージしていました。でもこのやり方はあまりAにはマッチしませんでした。Aはおもちゃを買ってもらうこと自体がまず一番好きで、それで買ってもらった後はしばらく遊んでいますが、飽きるのも早いです。

保育園や近所のお友達と遊びだすと、家ではあまり接することのないキャラクターについても学んできます。そうすると、「こういうのあるんやで」「こんなんいんねん」と言って教えてくれます。またYouTubeなどでいろんなおもちゃが紹介されているので、そこでもいろんなおもちゃの存在を学んでいきます。

せっかく買ったおもちゃがしばらくして見向きもされていないのを見ると、確かに寂しい気持ちになります。ですが、この「飽きる」ということはとても重要なのではないかと思っています。

というのも、飽きて別のものに興味を持つということがおきるからこそ、子供は積極的に新しいものと接し、新しい刺激を受けていきます。新しいおもちゃに興味を持ち、それであそび、だいたいどんなものかわかれば次のものに興味を持つ、そうして子供は新しい刺激を持ち、新しい知識を持ち、新しい発想を身につけていきます。

だから僕は、割り切って、子供がおもちゃに飽きて次のものを欲しがるとき、それが経済的に可能な範囲であれば、割と積極的に与えることにしました。Aが最初興味を持っていたもの「a」に飽きて、「b」を欲しがるとbを与えてみる。Aはしばらくまた「b」で遊んでまた飽きる。ですが、たんに「a」と「b」という二つのおもちゃがあるというわけではありません。というのも、新しく「b」がくることによって、 「a+b」という新しい遊び方ができるからです。

そういうわけで、我が家にはかなりのおもちゃがあると思います。あと僕が心がけているのは、Aに買い与えるおもちゃについて、僕自身もかなり調べて、Aと同じくらい詳しくなるということです。例えば、Aがウルトラマンに興味を持ちだして、ウルトラマンのソフビを欲しがるときには、僕もウルトラマンについてかなり調べたり、みたりして詳しくなります(といってももともと子供ときに、僕はウルトラマンが大好きでした)。子供は、気に入ったものに対して飽きるのが早くても、その短い間で、わりとマニアックにいろいろと覚える傾向にあります。それにまけずに、自分もマニアックになるということです。

このメリットは、子供と一緒に遊ぶのがうまくなり、子供と知識を知識や関心を共有でき、おもちゃを買うことについて自分も楽しめる(笑)ということです。ちなみに子供にも尊敬されます。

一つ一つのおもちゃには飽きがきても、こうしておもちゃが増えてくると、Aはおもちゃ博士のように、いろいろとおもちゃに詳しくなります。トータルでは、なかなかマニアックな領域ができるのです。しかもおもちゃの世界は、さらなる発展が見込めます。恐竜のおもちゃから恐竜に、忍者のおもちゃから歴史に、魔法のおもちゃから文学に。

だから飽きるということは、(僕の考えでは)とても重要なのです。


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教育に成功はない

子供を教育する上で、僕が意識していることは、教育に成功はないということです。

本やネットでも、教育の成功例みたいな内容のものはたくさんありますが、教育自体に成功なんてありません。例えば、東大に合格させる、とか京大に合格させる、あるいはどこかの医学部に合格させる、そういったものが目的ならば、確かに、そういった大学に合格させればその目的は成功したと言えるでしょう。でもそれは教育の一部でしかありませんし、教育の目的の中心部分でもありません。

僕の教育の目的は、Aが幸せになること、有意義な人生を生きれること、などです。その過程に先ほど言ったような大学に入るということが出てくることがあるかもしれませんが、それが唯一のコースでもなんでもありません。もちろん、「幸せになる」とか「有意義な人生を生きる」ということ自体が、曖昧でよくわかりません。というかこれは僕が決めれるようなことではないのです。それでもそういった曖昧なものを目標として教育するわけです。

たとえ一流大学に行っても、もしかしたらもっとAにとって有意義な人生を歩むコースがあったかもしれません。そういった可能性は必ずあります。つまり、どんなに一般にうまく行った、成功したと思われるような状況になったとしても、Aにとってもっといい状況があったかもしれないのです。その場合、一般に成功したと言われるような状況にAがなったとしても、教育に成功したと言えるでしょうか。

あるいは自分以外の人間がAを教育したら、もしかしたらもっとAの才能を伸ばせたかもしれない、そういう可能性も否定できません。だから僕は、教育に成功はないと言うのです。

教育に成功がないことは、教育をしない理由にはなりません。成功とは思わなくても、自分がその中で最善だと思うものを考え、それを実行していく、ただし成功しているかどうかなんてわからない。だからさらによくできることはないか考える。

逆にいえば、いつも失敗かもしれません。そして失敗でいいのです。

そういうものではないかと思うのです。


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教育はすべて親の押しつけ

僕の家に生まれてきたAはもちろんのこと、この世に生まれてきた子供はみんな、生まれる場所も時代も選ぶことはできません。そこに選択はないのです。。

そして彼らには、どうなりたいかというヴィジョンもありません(おそらく)。

だからどのような教育を子供にするのかということは、基本的に親が決めることになります。

親は、自分が子供にどのようになって欲しいのかというイメージを元にして教育の方針を決定します。(重要なことですが、この方針の決定通りに子供が成長することは、幸か不幸かなかなかない)。そして子供がどのようになって欲しいのかということには、もちろん子供の幸せということは大きな要因の一つとしてあるでしょう。

子供に小さい頃から習い事をすることについてはときどき批判もあるようです。しかし、習い事を習わすことも、習わさないことも、親が、先ほど書いたような自分の教育イメージをもとにして決定していることなのであり、その点では、どちらも押しつけであることに違いはありません。基本的に自分で選択できない小さい子供は、教育を受けないという洗濯もできません。教育をすることもしないことも、どちらも親の押し付けなのです

どちらが子供にとって自然か

というような問いは、人間にとってそもそも不毛です。不自然さが人間の自然であるとも言えるからです。こういった事例は枚挙にいとまがありません。車を乗ることは人間にとって自然なことか、薬を飲むことは、などなど。

僕の考えでは、親にとって重要なのは、どのようなやりかたであろうと、小さいうちに行う(あるいは行わない)教育は、親の押し付けだということを自覚することです。だからこそ、十分に考え、悩むべきなのです。

そしてやってあげているではなく、自分が自分のイメージを実現するためにやっているのだと思うこと、そうすれば、不要な感謝を子供に求めることもなくなります。


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