もちろん子供は親を選べない

ネットで育児関係のものをちょっと調べていると、子供が親を選ぶ、選ばないの話があるようで、奇妙に思いました。子供が親を選んで生まれてくる、という発想が、ある効果をもつのは理解できますが、明らかにもっともらしくないし、好ましいとも思えないからです。

「子供はあなたを選んでくれたんだから頑張りなさい」とか、「自分を選んでくれたんだからがんばろう」とか、まあそういう効果はあるかもしれませんが、それにしてもこの考えはどうかと思うのです。

もちろん科学主義者ではなくても普通に考えれば、生まれる前に選択する意思なんてのはありえないのですが、この手の考え方をする人には、そういう科学的な思考に訴えてもあまり意味はないでしょう。

僕が一番この考えが好ましくないと思うのは、極めて危険だからです。というのも、この考えは、子供に対するひどい仕打ちを正当化しかねないのです。例えば、子供に対して何をしても、「こんな私(親)を選んだのはお前じゃないか、自業自得だ」と。

しかも自分を選んでくれたから頑張るって、道徳的にどうなんやって思うんです。例えばもう少し大きくなった子供に、「君を選んでくれた人にだけ良いことをしてあげなさい」って教えますか?

さらに子供に「君がパパ(ママ)を選んだんだよ」なんて言えますか?厚かましいっていうか、向こうからしたらそれこそ「はあ?」って感じでしょ。

子供が自分を選んだから頑張るじゃなくて、選べなかったからこそせめてできるだけのことはしようってなるんなるんじゃないでしょうか。選べたらもっといいとこをえらべたのに、僕のとこに生まれてきちゃって。せめてできるだけのことはするわなって。

先ほど書きましたように、もちろん子供が選んでくれたからがんばろうってなるって理屈もわかるんですが、選ばれなかったとしてもいいじゃないですか。出会えたんだから。

(もちろん子供と一緒にいると、いつもこんな綺麗ごとですむことはないですけどね。腹立つこともいっぱいですし。)


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車のない生活

我が家にはクルマがありません。理由は2つあります。一つは経済的な理由、もう一つは教育的な理由です。(どちらかと言えば経済的な理由の方が大きいのですが)

車がまったく買えないかといえば、まあ無理をすれば持てると思いますが、国立の大学教員で、家のローンを抱えている身分としては、車を維持することは割と厳しいです。そのお金は、息子のおもちゃだったり本だったり、外食だったり、そういったものに使ったほうがメリットがあると思っています。保育園とかも車送迎禁止だし、区役所、病院なんかもすべて近くにあるので自転車の方が便利です。

京都は道も狭く、うっかりと車で行くと止まるところなど逆にストレスを感じるシーンも多いです。

そのため、我が家では電動アシスト自転車が大活躍しています。

もうひとつの教育的な理由ですが、我が家は車がないためにAが小さい時から基本的に公共交通機関を使っています。やむを得ずというよりも、むしろそれがAにとっていい刺激になると考えていました。小さいときから電車やバスに乗ると街の空気や風、そういった様々なものを感じることができます。また、赤ちゃんが電車やバスに乗っていると、色んな人が話しかけてくれます。そういった多くの刺激をAは受けるのです。

車は便利なところもありますが、どうしても密閉空間になって、変化がありません。小さいときから、なるべく小さい子なりの仕方で社会の中に出ることはメリットがあったと思います。

よくならない場所に行ってもAは落ち着いていると周りの人に言われましたし、今も言われることが多いです。彼なりに、「新しいところに場慣れ」しているようです。昔の日本のように大家族ではない核家族にとっては、こういったことも、保育園通いと同じように、子供にとっていい面もあるのかもしれません。


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保育園に行かせるか

保育園ありきのプラン

いまだに、保育園は、仕事などで止むを得ず子供を預けるところ、と考えている人が多いように思います。また社会制度もそのようなイメージで設計されているかと思います。そのために、保育園に預けるハードルがただく、預けたくてもなかなか思うように預けることができない現状があります。

ですが、僕自身はこの考えは改めるべきだと思います。保育園は、少なくとも幼稚園と同じように、選択的教育の場として捉え直すべきだと思っています。

僕の同僚でも、発達心理の専門家や社会政策の専門家などがいますが、共働きということももちろんあるのですが、みな保育園に子供を預けています。ぼくは昔、発達心理の専門家に、なんで自分で育てへんのや、と聞いたことがあります。すると、預ける方がいいから、という実にシンプルな答えでした。そのときは、それ以上深く聞かなかったのですが、今改めて自分の子供の教育について考えると、基本的には保育園に預ける方がいいと思いました。

その理由は、子供の社会性の発達と刺激ある環境という二つです。親がほとんどの時間を子供と過ごす場合、この二つを満たすことはなかなか大変です。どうしても比較的単調なループに陥りがちです。僕もAが生後一ヶ月経った頃から、二人で半日過ごすことがときどきありましたが、その半日を全力で相手するのは無理です。1日やそこらならまだしも、それが数日続くとなると、考えただけでも気が滅入ります。(専業主婦で、ワンオペ育児をしている人は、本当に大変だろうなと思います)。もちろん、そんな社会性や刺激なんて小さいうちは必要ないという考え方もあると思います。それは間違ってはいないと思います。また、場合によっては、世帯人数が多かったり、近所に同じ年くらいの子供が山のようにいて、なんかいつも道端で遊んだり、といった仕方で、保育園に行かなくてもそういった刺激を与えられる環境もあると思います。ですが、我が家の場合はそうではありません。そして、必要か必要ないかというのは、目的にたいして決まるものです。僕はわりとどんどんと教育を勧めていくというプランでやっているので、今の我が家の環境において、その目的にとっては、保育園に行って刺激を与えることは必要なのです。

子供成長を待たない

僕の考えでは(僕は教育学の専門家ではありません)、子供の成長をただ待つというのは、あまり良くないと思っています。動物は、環境に対して非常に柔軟に変化する生き物なので、人間も、たんにその成長を待つのではなく、成長を引き出すために刺激を与えることが必要だと思っています。そのためには、家とは違う環境、たくさん人のいる環境、そういうところにAを送り出すことが、彼の成長を促すと考えたのです。そのため、保育園は、我が家にとって、経済的に必要な選択肢ではなく、教育的に必要な選択肢だったのです。

ですが、誰でも保育園に行けるわけではありません。我が家では、Aを保育園に行かせるために、妻にフルタイムで働いてもらうことになりました。久しぶりの労働ということもあって、最初はめんどくさがっていた妻を説得し、ハローワークに行ってもらい、仕事を見つけてきてもらいました。(ちなみに、妻の自由になるお金が増えたので、妻は今では働いて良かったと言っています。)ハローワークで仕事を探しているあいだ、また勤め先が決まっても正式に4月までは、一時保育でしのぎました。

おかげで無事に一歳一ヶ月のとき(2019年の4月から)息子は、正式に保育園にいくことができました。

また別のページで書きますが、保育園に行った効果は出ていると思います。

しかし、保育料の高さにはやや辟易しています。我が家全体の収入は、妻がフルタイムで働いても、基本的にはパートなので、保育料を払うとほとんど増えません。

普通の幼稚園のように、家庭と園の契約という形にして、誰でも(場合によっては共働きではなくても)保育園に行けるような社会にするべきです。保育園に行かせなければならないと言っているのではありません。希望したら誰でも行けるようにするべきです。保育園は、たんなる保育の場ではなく、一種の教育の場なのです。


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ベビー公文を選んだ理由

全体的な教育についての考えばかり書いていると、もっと具体的で個別の内容が知りたいという方もおられると思いますので、今回は、個別事例をとりあげて書いてみます。特に習い事に関わることなので、興味を持っている人も多いかと思います。

今回は、ベビー公文を僕が選んだ理由を書きます。あらかじめ申し上げておきますが、僕は公文の宣伝をするつもりもないですし、まったく利害関係もありません。

これから頻繁に書きますが、僕は僕のやり方を勧めているわけでもありません。個別の教育実験については、それぞれの家庭環境によってできる範囲がかなり異なりますので、あくまでも僕の個人的な記録・考えと思ってください。

ベビー公文とは

公文は、僕も子供のときに行っていました。また子供のときに公文に行っていた人も多いかと思います。公文は、週に二回、算数・数学や国語などを教室に行ってプリント学習をする、そういうところです。ベビー公文は、それとはかなり違って、基本的には、絵本やカード教材のようなものをもらって、月に一度だけ教室に親と一緒に行って、公文の先生とちょっと話をする、そんな感じのものです。

乳児はまだ教室に行って一人で勉強するなんてもちろんできないので、こういうやり方になっているのです。月の料金も2200円で、それほど高くありません。

ベビー公文自体について

それほど高くないと言っても、まあ月に一回行って話をして、絵本とかカードみたいなのをもらうのが内容だと考えると、2000円が安いというわけでもありません。というのも、絵本ならば、本屋に行って自分で選ぶほうが、好きなものを選べる分いいという考え方もあります。カードとかも、家でそれほど使ったかといえば、・・・・という感じです。僕も実際のところ教材でベビー公文を選んだということではありません。そういう意味では、2200円のコストパフォーマンス自体はそれほどよくないとも考えられます。

それでも選んだ理由

それでもベビー公文を選んだ理由は二つあります。

一つめの理由は、出産後、しばらくの間、妻は仕事をしておらず、週に一度の児童館に行ったりする程度でしたので、子供と一緒に外出する機会を増やすというものです。月に一度でも、定期的にどこかにいく機会が増えるのは、生活のリズム感が高まります。

二つめは、Aを公文教室の場所と公文の先生に慣れさせるという理由で、これが重要な理由です。僕は、はじめから、Aが大きくなってくれば、通常の公文に通わせるつもりでした。しかも、できるだけはやく通えるように持っていくことを考えていました。そのためには、Aが、初めての場所で、知らない人のところに預けられるという状況をあらかじめなくしておくことが必要だと考えたのです。そういう状況になると、もしかしたらAは、泣いたり、ぐずったりするかもしれない。それならば、あらかじめその場所と人に鳴らしておく方が、スムーズに通常の教室が良いに移行できると考えたのです。約1年ちょっとベビー公文は続けましたが、これはうまく行きました。Aが2歳4ヶ月から通常の仕方で公文教室に通い始めたとき、息子は実にスムーズに、一人で教室で勉強できるようになりました。(一人といっても、誰か先生が横で見てくれています。あくまでも親から離れて、ということです。)

逆に言えば、もしも通常の公文に行かせるつもりがなければ、ベビー公文は選ばなかったと思います。

将来どういう教育方法をとるかをイメージして、そのためにどうするか、それが今どういう選択をするかの理由になるかと思います。


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生まれた瞬間から教育ははじまっている

僕の考えでは、子供の教育は子供が生まれたときから始まっています。「教育」じゃなくて、「養育」ではないか、と思われるかもしれません。でも「教育」なのです。養育ならば、わざわざいう必要なんかないのです。といっても、昔はやった胎教とか、そんなんではないです。

子供との絆をつくる

教育には、本当は父親も母親もありませんし、育児についても同じだというのが僕の基本的な考えです。父親が働いて母親が家にいるという家の概念は、もう過去の遺物であると考えています。両親共働きがますます一般的になると思いますし、また父親が家にいて母親が働きに出るというパターンがあってもまったく問題はありません。

重要なのは、ある程度先のことを見越しつつ、父親も母親も積極的に教育について考えていくということです。

先ほど父親も母親も関係ないとかきましたが、やはり例外はあります。もちろん出産自体は、母親しかできませんし、出産後は母親はあまり身動きは取れません。また母乳で育てる時には、父親は残念ながら母乳は出ません。

ですが、こういう違いはありますが、どちらが子供の教育にとって優位か・しやすいか、というメリット・デメリットになるような違いはありません

例えば、僕の場合、もちろん僕から母乳を出すことはできませんが、それによって逆にAと絆を深めることができました。どういうことかといえば、子供がある程度大きくなるまでは、夜、数時間ごとに泣いて起きるということはよくあります。そのとき、母乳をあげても、おしめを変えても泣き止まないということもよくあります。ようするに、なんで泣いているのかがわからないということが起きるのです。そういうときに、妻は、よく母乳が足らないのかと思ってさらに乳を飲まそうとして、それによって泣き止まそうとしました。しかし、それでも泣きやまない。まさにそういうときこそ、父親のチャンスなのです。僕ら父親は、母乳でなきやますことはできません。できる武器は、抱っこ!しかないのです。

しかも、僕の妻は、夜一度寝たらなかなか起きないタイプです。Aが泣き出しても、しばらくしないと目覚めません。一方、僕は眠りが浅く、すぐに目が覚めます。だから、僕の方がAが泣いていることに気づくことも早かったのです。僕は目覚めると、Aを抱き上げて、リビングのある一階におります。そこで、ひたすらAが泣き止むまで抱っこするのです。

妻が家事をしている時も、Aが泣くとすぐに抱っこ。おむつがえ、抱っこ、として妻が寝ているときは粉ミルクというふうに、抱っこを中心にスキンシップをとりまくりました。おそらく、抱っこについていえば、妻よりも僕の方がトータルの時間は長かったと思います。

また産後、妻が出かけることができるようになると、妻が外出したいという時には、積極的にそれを勧めました。そのおかげで、生後一ヶ月くらいから、半日くらいAと一緒にすごすという機会は、わりと頻繁に訪れました。不安に思う必要も、おろおろする必要もありません。半日くらい、多少失敗しても、そばにいてちゃんとみてさえいれば、あるいは抱っこさえしていれば、なんとでもなるのです。そしてそれは、子供と絆をつくることができるまたとないチャンスなのです。

また別の機会に書きますが、そのおかげか、息子は、すっかりパパっこになりました。重要なのは、僕と息子の間に、強い絆ができるということなのです。(息子が、すごいパパっこだとわかったころ、妻は、「抱っこをさぼりすぎた」と言っていました(笑)

大きくなって、いろいろ教育実験をするために、一番重要なのは、実験者と実験対象の信頼関係です。僕が、Aにああしろ、こうしろといっても、Aが「パパはいや」「パパのいうことやりたくない」と拒否されてしまうと、非常にめんどくさいことになってしまいます。中には、お母さんが中心になって勉強を教える、教育を施す、という家庭もあるかと思います。もちろん誰がイニシアティブをとろうとそれはいいのですが、一人ですべてするのはとても難しいです。ですから、たとえお母さんが中心になって子供の教育を行うんだと思っている家でも、父親がいつでもサポートしたり、交代できるように、父親と子供の強い絆をつくっておくことにこしたことはありません。

我が家は、僕がAの教育についてはプランニングし、基本的には実行しています。ですから、僕の戦略としては、Aと深い絆を作ることは、必要不可欠なことだったのです。

ですからこれは、たんに子育て、養育ということではありません。

その後のより本格的な教育実験のための布石なのです。


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